春分の日。今夜の大阪は、まだ13度ある。私は毎週土曜の朝、新幹線で東京から移動してくる。TODAY!心斎橋に来られた患者さんたちも、今日はコートを脱いで汗をかきながらいらっしゃった。やっとあたたかな春になるかな。

私の名前は、千春。春の初めに生を受けた。自分でも信じられないことだけど、先日50回めの誕生日を迎え、私は元気に生きている。ただただ感謝。

18歳の春、故郷・岡山を出る新幹線のホームで、別れた父の最後の言葉は、
「おまえの名前は、千に春と書いて千春。春は眠っているものを呼び覚ます季節。自分の中に眠っている可能性を千個呼び覚まして帰って来い。」だった。父には、すでに別の家族があり、それから長い間会うことはなかったが、私はこの名前がそのときからとても好きになった。

とにかく、自分の可能性を呼び覚ますチャレンジをし続けようと思えたし、そうしてきたつもりだ。子供の頃は人前で話すこともできない引っ込み思案の私が、岡山を出て東京で進学し、一人で暮らし、岡山から日本で一番遠い北海道でアナウンサーという仕事に挑戦し、東京に再び戻って結婚し、アナウンサーと並行してウェディングプロデュースという新たな仕事を始め、東京と岡山を往来して「幸せのシーン」を演出するお手伝いをするようになっていた。

そんな中、33歳のある日、仕事で徹夜明けの朝のシャワーで乳房にしこりを見つけ、突然がん患者になったのだ。
いままでがんばってきたのに、どういうこと!?
私の何が悪かったの・・・もしかして、死んじゃうの?

うだうだしていた私に嫌気がさしたのか元夫は出ていき、岡山の実家の事情も勃発して、私のそばから家族がいなくなり、仕事も縮小し、独りの闘病生活が続いた。
そばにいてほしいときに、そばにいてほしい人がいない。あまりのさみしさ、孤独感から、生きる気力がなくなっていった。治療のために、身体から乳がんのエサとなる女性ホルモンが抜き去られたことも影響して、私は次第にうつのような状態になっていった。自分はこの世に必要な存在なのか。いなくなっても誰も困らないのでは、気づきもしないのでは、と思うようになった。こんなにさみしくて、苦しいなら、消えてなくなったほうがいいのではないか・・・そんなことさえ考えるようになっていた。

私の記憶が定かかどうかわからないが、渋谷だったと思う・・・ふらふらになりながら歩いていた路上で、筆で文字を書いている人に出会った。
の人は路上に座り『あなたの目を見て、詩を書きます』というパフォーマンスをしていた。
路上詩人というのかな。彼が書いたざまな言葉が、無造作に路上に置かれていた。
その中のある文字を見たとき、私は完全に立ち止まった。


 「心配すんな、どうせ死ぬんだ」 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そうか、遅かれ早かれ、人は死ぬんだ。だから、あれこれと
「心配せんでいい」ということ・・・・・・・・・・・妙に納得した。そして、一人の部屋に帰り、
その言葉を何度も声に出して言ってみた。腑に落ちた。
いま、自ら消えることを考えなくても、消えるときが来たら消えればいい。だから、いまはどうにもならないことを、あれこれ心配しなくていい、なるようになるんだから、と思えた。そして、私は、とにかく、生きてみることにした。

その数年後、私は、自らのがん経験と大勢の患者仲間との出会いから、必要を感じ、がん患者さんのための生活サービス事業会社を立ち上げることにした。その前は、ボランティア患者団体として活動していたが、ボランティアではなく、会社として、患者さんの生活と心をサポートする質の高いサービスをつくり、継続したいと考えた。日本で初めてのがん患者生活支援サービス会社。ボランティアの仲間たちは、そんなの仕事になるのか、商売にしてどうする、お金儲けにする気か、などといろいろな忠告をしてくれた。しかし、私は、生涯で二人に一人ががんになる日本で、この仕事は、介護や福祉のサービスがあるのと同様に、この国に必要だと確信していた。そして、それに気づいたのなら、自分でやるしかない。

しかし、会社の船出は、すべての面で厳しさ満載だった。いままでやってきた仕事を捨てて、本当に、私は、この道を行くのか。何度も何度も自分に問うていた。問いながら、また、道を一人歩いていた・・・表参道のスパイラルホールの入り口だったと思う。何年か前、渋谷の路上にいたあの路上詩人がいるではないか!あまりの偶然。あの日と同じ下向きな気持ちのこのときに。とにかく、あのときのお礼を言わなければ、咄嗟にそう思った。以前と少し雰囲気が違うように見えたが、瞳の力と輝きは、まちがいない、あの時のあの人だ。

=あなたの名前を教えてください。インスピレーションで詩を書きます。= という看板の向こうに、その人は座っていた。

あの~、何年か前にあなたの書いた文字を路上で見て、
生きる勇気をいただきました。
ありがとうございました!」そう言うだけで精一杯だった。なぜか涙がどっと出てきたから。

「そうですか、よかった。お名前なんてゆーんですか」
「千春です。センにハルです。」

彼は私の涙目の奥を‘ぐっ’と見た後、一気に書き上げた。それが、この色紙だ。

てんつくマンさんからいただいた言葉

春の字の「日」を、くるくるくると渦巻きにしたとき、こういう春もいいな~と感じた。そして、この内容。名前を伝えただけなのに。この人は何者なんだろう。宗教は持っていないからよくわからないけど、路上で神の声を聞いたような気がした。一人の部屋に戻って、この色紙を見ていたら、「よし、信じた道を行け!迷うな自分。伝えろ、自分。」と性根がすわった。
涙がぽちっとこぼれて、色紙の真ん中辺りが滲んだ。

あれから10年以上が過ぎた。去年の秋、仕事の中で、いろいろな出会いと別れを経験し、
次々に人生の課題が与えられる中、これからこの仕事をどのように続けていくかを考えていたとき、机に立てかけてあった少し色あせたこの色紙がまた目に飛び込んできた。

そうだ、「伝えよう!」。ここまでの多くの出会いで得た学びのすべてを惜しみなく伝えよう。
ある日突然がんになっても、恐れず、ひるまず、一人一人がしっかりと自分らしく自分の道を歩み続けることができることを。そして、どんな状況の中でも、その捉え方、考え方一つで、不安を安心に変え、自分らしさに変え、さらに味わい深い人生につなげていけることをそのために全力でお手伝いをするのが私の仕事なのだと確信できた。
毎朝、私はこの色紙を声に出して読んでから出社する。

後からわかったのだが、この路上詩人は、元吉本の芸人さんで軌保博光さんという方だった。昔、山崎邦正(月亭邦正)さんの相方だった方で、今は「てんつくマン」と名乗っておられる。映画監督で、路上詩人で、会社やNPOやさまざまなワークショップをやっておられ、なんと今は、プロゴルファーに挑戦しているらしい。
さまざまな形で、自らの身をもって不可能を可能にできることを示し、世界のすべての人を笑顔にし、元気にし、生きてていいんだ!人間はすごいんだ!ということを伝え続け、世の中をハッピーにすることを仕事としておられる。ものすごーく迫力があって、それでいてやさしい。愛にあふれた方。
この方とこの言葉に、私は、一番必要なとき、路上でばったり出会ったのだ。ありがとう。

そして、近いうちにまた会える気がしている。今度は涙目ではなく、どんなときも笑顔でお会いしようと決めている。

生きる路上では、節目節目の大事なときに、不思議な出会いが訪れる。人だったり、言葉だったり、ものだったり、・・・あなたにも必ず。

 

てんつくマンさんのオフシャルブログ → http://ameblo.jp/tentsukuman-san/